このテーマは実にいろいろなことを考えさせてくれる。
カンガルーマンの父親は今年で94歳になる。
昨年までは元気で普通の生活をしていたのだが、年末に階段から落ちて腰を痛めてしまった。同時に頭も打撲したようで脳に水が溜まってしまった。
入院してベッドに縛り付けられるような形(腰の矯正のため)で治療を受け、頭の手術を受けた結果、命は命は取り留めた。
数か月後リハビリ専門の病院に移ったのだが、結論から言うと去年の状態からは程遠い。
頭のボケが極度に進行し、物事の判断が全くつかなくなっている。
誤嚥の可能性があるとかで、鼻からチューブを入れて栄養補給をしている。
現在、リハビリ病院からは次のステージとして老人ホームに移転するよう進められている。栄養補給に関しては“胃ろう”という方法をとるように薦められている。
カンガルーマン感覚でいうと自分がこの状態に置かれた場合、「自分はここまでして生きたくはない。殺してくれ!」だろう。
父親に「どうしたい?」と問いかけても、現段階ではまともな判断ができないためまともな答は返ってこないだろう。
医療の発達で昔だったら死亡してしまったようなケースでも、現在ではこのようにして肉体を生かすことができるようになった。
人の命の重さはかけがえのないものだが、どこかしっくりこない。
この鼻チューブあるいは胃ろうという方法をとらなければ衰弱して死に至る。しかし当人はどの選択をするか判断できなくなっている。
この判断は周囲の人間の手に委ねられている。
カンガルーマンと家族は近い将来この判断をしなければならないのだろう。
既に同じ経験をなさった方々も多くいるだろうし、これからの長寿社会において日常茶飯事の出来事となるのだろう。
ただ単なる延命にどれだけの価値があるのか?
近い将来リハビリの成果が出て、父親が自分自身で判断できる日が来ることを祈るしかない。
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